【教育の制度と経営】ドイツの公教育制度の発展と教育行政

こんにちはペンタマニア(@labhobby)です。

ドイツの公教育制度の発展と教育行政の発展を時系列にして簡単にまとめる

ドイツは東西分裂により、西では民主化教育、東では共産化教育制度を実施している。

西ドイツにおいては11の邦からなる連邦共和制で、各邦に「文化主権」が与えられていたことから、学校制度と教育行政に関する法規は各邦で異なる。国による公権力よりも邦の公権の方が強い。

1948年にドイツは西ドイツ11州・東ドイツ5州で構成されていた。冷戦崩壊後の1990年以降は16州でドイツ共和国連邦は構成され現在に至っている。

1970年の教育改革

西ドイツでは、各邦における教育改革の基本的方針を、ドイツ教育審議会勧告の「教育制度の構造改革」と連邦文部省の「教育報告70」が提示した。

  • 固定的分岐の廃止
  • 学校の段階的性格の強調
  • 学校間の移行の可能性
  • 総合制学校制度の導入

1970年代のドイツは、工業力を背景に発展したが、貧富の差も激しく衰退地域の再生を目指す動きがあった。

西ドイツにおいては、ある一定の教育の統一性を目指す動きがあった。

1980年の教育改革

1980年代に入ると、生徒の減少、親・生徒の上級資格取得の希望が強く一部の邦で、「学校の制度改革」がおこなわれた。

一部の地域で、ハウプシュレートやギムナジウムで履修年数の再編成、主要科目の必修化が進められた。

ハウプシュレート
中等教育卒業後に、就職訓練を受ける生徒が進学する学校

ギムナジウム
中等教育卒業後に、9年制の大学進学希望者が進学する学校

経済成長により国が豊かになると、高等教育を目指す人が増え、ハゥプシュレートの進学者が減少した。

1990年~現在の教育改革

教科の知識よりも実生活に結びつける学校改革が重要視され、学力は低下し、国際学力調査結果は極めて低迷した。

このような教育改革をおこなった背景には、80年代に教育の激化が原因とされている。

各州での教育改革と2001年12月の「総会」において、常設文部大臣会議の7つの行動領域で学力強化がおこなわれた。

今日では、社会的弱者に対しての手厚い支援、知識・技能の習得よりも問題解決型の能力が重要視され、諸能力と簡略化された内容のみが規定され、多くの部分は学校裁量に委ねる傾向となった。

まとめ

ドイツの公教育制度の発展は、社会で求められる能力に応じて変化してきた。

特徴として、いつの時代においても公教育の改革を行おうとするとき、邦の公権力が重要視される。

70~90年代、国の改革は教育の方向性や指針を提示しているが、具体的内容は提示していない。

80年代の制度改革も一部の地域で改革は行われたが、西ドイツ全域では行われていない。

実際、今日においてもドイツ連邦審議会、連邦各邦教育委員会で、連邦全体の統一制度を目指しているが実現していないために、学校制度や教育制度は各邦で異なり統一性はない。伝統的な制度を緩やかに調整している過程である。